寄付のすすめ4 –一昨年から寄付を始めた愛知育児院さんに初めて訪問しました。寮長さんに施設を案内いただきました。

2016年から寄付を始め、今年は3年目になります。恵まれないお子さんのために寄付を始めて、先日寄付先の愛知育児院さんに初めて訪問させていただいたので、今回はご報告します。

寄付に至るまでの経緯や苦労は昨年の記事↓をご参照下さい。
初めての寄付1 –児童養護施設への寄付を実行に移してみました。寄付に至るまでの道のりを纏めました。ヽ(^o^)丿

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■はじめての寄付先を訪問しました

昨年に引き続き、孤児院への寄付を実施しました。
その中で、寄付をした愛知育児院さんに行けていなかったことが、心の残りでした。
そこで、今回機会がありましたので、初めて訪問させていただきました。

■寄付先、愛知育児院 南山寮

寄付先は、愛知育児院の中の、児童養護施設「南山寮」というところです。
愛知育児院のあゆみは、こちら↓を見てみて下さい。少し転載させて頂きます。
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明治19年、愛知育児院は熱田伝馬町の正覚寺境内から初めの一歩を踏み出しました。 生みの親は、森井清八、当時42歳。有松絞の紺屋(染物屋)の主人でした。森井の生家は、維新前後の混乱で、放浪する人たちがいやでも目につく東海道沿いにあり、清八の父、平九郎は、そうした赤貧の旅人や物乞いに食べ物や衣服を与え、無料で泊めさせるような人柄でした。そんな家庭で育った純粋な男の心を揺さぶる事件が明治15年に発生します。それは、養育料つきの赤ちゃんを金目当てでもらい受けた男が養育料だけ取って子どもを次々と殺してしまうという凄惨な事件でした。隣町で起きたこの事件が清八の心を奮い立たせ、この年から家業の一切を妻子に託し育児院設立のために奔走し始めたのです。  清八は、まず愛知、知多の両郡、名古屋の篤志家を次々と訪ね、協力を呼びかけます。明治17年には、大阪愛育社という育児院の存在を知り、直接大阪まで出かけて運営の仕方などを視察しました。しかし、当時の民間において、清八が手がけようとした事業はほとんど未開の分野であり、力のない庶民が計画することは無謀とも思える事業でした。
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愛知育児院のあゆみ

■寮長さんに案内いただきました

いきなりの訪問でしたが、寮長さんにご案内いただきました。これまでも、メールのやりとりはさせていただいた寮長さんでしたが、快く受け入れていただいて、お忙しい中、愛知育児院さんの施設の案内をいただきました。

愛知育児院さんには、小学生に満たない幼児から高校生の男女まで、生活しています。50人が生活しているのですが、その一つ一つのお部屋(ユニットと言います)を案内していただきました。

特に感動したのが、夏休みの季節で、幼児の方々が夕方、お風呂に入っていたのですが、お風呂から上がってきた子どもたちが、僕を見つけると集まってくれたことでした。
みんな集団生活ですが、とっても楽しく、フレンドリでした。
でも、特に小さいお子さんほど、愛情に飢えていて甘えることが多いように思いました。

寄付を通じて、お会いしたご縁、もっと言うとお会いした若い人たちですが、不幸せを幸せを変えていく仕事はとても素晴らしいと思いました。

ワタクシゴトですが、2018年5月に本を出版しました。

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ビジネス社さんより出していただきました。

この記事のまとめ:

  • 2016年から寄付を始めました
  • 寄付先は、愛知育児院さん
  • 今回機会があって、初めて訪問させていただきました
  • 寮長さんに案内いただいて、いろいろ感じるところがありました

投稿者プロフィール

もりかずお
もりかずお代表